DX・デジタル
注目記事
サステナブルなモノづくりのために No.98
2025.05.01
サステナブルなモノづくりのために No.99
2025.06.02
実はこの話題を本連載で3回目なのだが、筆者の担当する大学院の講義の1コマで「最近の若者は車を買わなくなったのか?」というテーマで学生とディスカッションをやっている。毎回新たな発見があるので、今回も学生の意見を紹介しよう。 この問いの背景は、我が国の基幹産業の大黒柱であり、大量生産・大量販売の象徴である「自動車」を、若者が購入しなくなったのだとしたら、それは、ある消費者層(この場合は若者)の消費形態が大きく変わったということだから、持続可能な社会の実現に向けて何らかの参考になるのではないか?ということを考えている。 話の前提はかなり極端で、場所は東京の真ん中で、足として車が必要な地方とは状況が大きく異なる。対照とする時代を、筆者が若者だったときの多少サバを読んで1990年と置いている。まさにバブル真っ盛りであり、大学生になったら車を買うのが当たり前、車がないとデートできない、格好良いスポーツカーを持っている奴がモテるという時代であった。ちなみに、1990年と現在は、人口は大体同じぐらい、実質GDPは1.3倍だが、20代人口が3/4に減り、自動車販売台数(バス、トラックを含む)が、778万台から478万台、つまり約40%減少しているという状況である。逆に言えば国内市場が40%縮小しても元気な自動車産業は偉い。 さて、彼らの意見を聞いていると、学生には、自動車を購入する、所有するという発想はない。友だちと旅行に行くときにはカーシェアリングを使うことはあるが、日常的に車で移動する習慣はないし、都会の交通インフラが便利になっているので、車で移動する必要性を感じないという訳である。講義が雨の日にあったらもう少し議論が変わったかもしれないが・・・ これまでは、1990年の話をすると割と何でそんなバカげた理由で車を買うのかという反応が多かったが、今回は一周回って、昔話としては理解できるという反応が多かった。1つ鋭い指摘だったのが、ステータスに対する認識が大きく変わったのではないかという指摘であった。その当時、車を持つ、スポーツカーを持っているということがステータスだったのではないか。それに対して今は、SNSでフォロアーが多いとか、ゲームの成績がステータスであり、車は映えず、そういう価値はないという指摘である。なるほど、そうだとしたら若者は車を買うわけないと深く納得した。 デートに必須とか、高いステータスを獲得するために必須のアイテムという幻想が失われてしまうと、どう考えても都会で車を所有する合理的な根拠はない。初期投資額、維持費、駐車場代が割りに合わない。都会は交通インフラが発達していて便利だし、速くて正確。自動車は移動時間も正確に読めない、交通事故のリスクが怖いといった意見も出た。昔は車があれば、通勤通学の時間も自分の空間があって、音楽やラジオが聴けて、電車の混雑が避けられるということだったが、電車の混雑度は若干は緩和され、スマホとイヤホンでそういった楽しみもバーチャル化されて実現されているのだろう。 かように、若者は車を買うことが全く眼中にないとすると、テレビでやっている山のような自動車のコマーシャルは何なのだと思ってしまう。あ、そもそも若者はテレビを見ないのか。この辺に、空間は同じ所に暮らしていたとしても、ライフスタイルに大きなジェネレーションギャップがあることに、改めて気付かされる。 学生の意見を聞いていると、彼らのライフスタイルはつくづくサービス社会に既に移行済みであると感じる。買い物はオンラインショッピングで、友だちと遊ぶのもオンラインゲーム、会話もLINE。その意味で外出する機会が減った。旅行のために車を使うことがあるが、頻度が低いのでカーシェアリングで充分。目的に合ったサイズの車を借りられるのでむしろ便利。キャンプに行ったりすることもあるが、それも身一つで行ってキャンプができたり、バーベキューができるサービスを利用する。つくづく、ものを所有せず、サービスを適切に選択して活用するライフスタイルの広がりを感じる。改めて1990年と今を比べてみると、時代は実際大きく変わっているし、まさに、諸富先生が言う「非物質主義的転回」(諸富徹: 「資本主義の新しい形」, 岩波書店, 2020)が身の回りで十二分に起きていると感じる。 とすると、筆者らは、脱大量生産・大量消費だ、サーキュラー・エコノミーだと、説教臭く言っているが、若者のライフスタイルは既にそうなっているのではないか。むしろ彼らを手本として、変わるべきは、筆者らの世代であり、おそらく、日本メーカーの体質、思考回路なのであろう。学生のレポートにも、「製造には強いが新たなコンテンツを生み出すイノベーションに弱いというままでは、近年コト消費を生み出し続けている海外企業に対し、競争力が低下する一方だと危惧されます。」とあった。 改めて思ったのは、社会は時間と共に大きく変わる、変えることができる、そこは確信をもって良いということである。しかし一方で、1990年と今を比べたとき、CO2排出量はほとんど減ってないし、資源消費量も多分ほとんど減ってない。若者のライフスタイルの産業部門を含めた日本全体のCO2排出、資源消費に対する影響力がまだ充分に大きくなく、今後は加速度的に削減が進むと信じることにしよう。
第145回「正十二面体づくりと工学に生きる心得」
2025.04.01
正多面体は辺の長さが等しい一種類の正多角形を組み合わせ、かつ各頂点の周りの面の数が等しい多面体です。正三角形による正四・八・二十面体、正方形による正六面体(立方体)、正五角形による正十二面体の五種類があります。その形や展開図はあちこちで紹介されるため、ご存じの方も多いとは思います。正多角形でできるものには他に、サッカーボール型といわれる切頂二十面体(正五角形×12、正六角形×20)などもあります。
第146回「シャッフルされた学生番号とハッシュ」
2025.05.01
大学では学生さんたちの情報管理に学生番号(または学籍番号など)という数値をつかいます。会社も社員の番号があるでしょうし、日本全体ではマイナンバーがあります。これらの番号は、何らかのルールに従って重複無く割り振られた番号です。氏名で区別しようとすると、どの漢字か(とくに同じ名字でも文字が多数ある場合など)などで照合の煩雑さがあるほか、漢字まで一致した同姓同名が区別できなくなります(実際に大学のクラスであったときには番号でしか区別できなかった)。また、数値には大小があるため、コンピュータ内での比較や参照などがしやすく、非常に便利です。 日常的に書類に「氏名」と「番号」を併記で書くことを求められますが、おそらく「番号」のほうが主で、処理をするときに番号をまず入力して、番号から検索された氏名と、記載の氏名が一致するかチェックします。氏名を書くのは番号を書き間違ったときの対策として、場合によっては本人が書いたことの筆跡の検証をするためです。重要度の高いものでは、本来必要な数値の他にもう一桁、何らかの計算で決まるようなチェック用の桁を用意して、ひとつの書き間違い、読み間違いくらいは検出できるようにします。 さて、学校における番号の設定には、しばしば五十音順が用いられます。私は小学校のときには誕生日順だったので常に最後だったのですが、付番根拠によってはそのような非公開属性が見えることがあります。本学も五十音順だったのですが、2年前からシャッフルされて、氏名と番号が一見するとランダムになりました。そのときは驚き抵抗を感じましたが、考えてみれば私は出席や提出物、成績の管理は番号で行い、氏名は上記の通りチェック用ですので、五十音順の必要はありませんでした。シャッフルすることにした理由はいくつか考えられるのですが、ひとつ便利なことに「佐藤班」の問題が消えました。 実験実習をする際に学科を数人単位の班に分けることがあります。われわれの作業効率を考えて、番号順に人数ずつ区切って行きますが、総勢100人もいると佐藤さんが数人いて、場合によってはほとんど佐藤さんという班ができます。下の名前で呼ぶか、「○○番の佐藤さん」と言わなければなりません。シャッフルされると、この問題はほぼ回避され、同じ名字の人が同じ班にいることは偶然になります。 似たような考え方は物品管理にも使われると聞きます。代表的な事例はピッキング作業をする場での並び順です。たとえば、ネジなどの部品を引出しにしまうときに、直感的には同じ規格で長さ順で並べたくなります。その場合、隣接する区画に見た目の似たものが並ぶことになり、取り出すときに良く見る必要があります。一方で、M3x10ネジとM6x20ボルトとM2ナットとM5ワッシャという組合わせであれば、仕切り無くまとめて入れられていたとしても、見ても手触りでも区別がつきます。もちろん、欲しいネジがその引出し、ということを特定できる何か手段が別に必要ですし、「近い何かを探したい」ときには逆にやりにくくなりますが、あえてバラバラにするとピッキングミスは減らせます。