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第147回「コンピュータの乱数 と 乱数の再現性」

2025.06.01

 わたしの旧twitter(X)にはいろいろな技術情報が流れてきます。気になったものはその情報をたどって詳細を確認するのですが、少し前に「乱数をつくる」手法が流れてきました。メカトロの専門の範囲で、また様々な目的で、乱数を使うため関心対象です。生産設備などを動かすときにランダムさは無縁そうに見えますが、ロボット分野では乱数を使う手法が様々ありますし、我々の日常でも乱数のお世話になっています。 乱数、乱数列は、文字通りランダムな数値です。それまでに出てきた数値列から、次に出る数値は予想できません。乱数を得るという作業(サイコロをふるとか、関数の実行など)のたびになにか数値を得ます。一方、一般的なコンピュータの計算にはランダムな要素がないため、コンピュータのプログラムで作り出した乱数は、乱数っぽく見えても何か規則があって、かつ非常に長い周期の繰り返しがあり、擬似乱数と呼ばれます。 擬似乱数にはいくつもの生成方法が提案され、使われています。それら方法を比較するための主な評価指標は、計算の手間と乱数としての性質の良さです。前者については、たまにしか使わないものであれば負担になりませんが、ランダムな信号の生成では使用回数が多くなりますし、ロボット制御分野にもひたすら乱数を使うような手法があり、その場合は簡単な演算で済むに超したことはありません。後者はどのくらい本来の乱数の性質に近いかという観点で、単純にはその繰り返しの周期の長さ、ある程度の数量の乱数を作った時にその列から次の値を予想し得るかどうかなどがあります。 コンピュータの乱数はちょっとしたゲームを作ろうとしたときなどにも(たとえばじゃんけんでも)必須なので、私はプログラムを作るようになった早い段階から触れていました。プログラミング言語標準の乱数ではしばしば、「0~ある上限」までの整数が一様に出てくるため、たとえば、{1,2,3}から一つ出るものが欲しいという場合は、  (得た乱数÷3の余り)+1のような計算をします。この使い方をしたときにも綺麗な乱数かという観点もあります。 あるとき、画面上で上下左右にランダムに動き回る点をつくろうとしました。4で割った余り(より正確には下位2ビットを使用)の0123で4方向を決めるプログラムを書いて実行したところ、動きません。正確には、上下左右の動きを規則的に繰り返して、小さな往復運動をしていました。当時は乱数とはランダムなもので、このような現象が起き得るという知識はなかったため、移動方向を画面に連続して表示させて現象を特定しても何が悪いのかわかりませんでした。ふと、「5で割って余り0123は移動、4は乱数出し直し」としてみたらランダムっぽく動き回ったので、そのときはそれで良しとしました。擬似乱数の方式によってはこのような問題があることを知ったのは、ずっと後のことでした。 技術全般に「いいところしかない」なら、特許等の制約がないなら、その手法が席巻するはずですが、複数が共存しているのは利点欠点の取捨選択があるためです。冒頭の、流れてきた手法は原理を理解しきれませんでしたが、小型のマイコンで動かすのにも軽そうな方法に見えました。

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サステナブルなモノづくりのために No.98

2025.05.01

 

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サステナブルなモノづくりのために No.99

2025.06.02

 実はこの話題を本連載で3回目なのだが、筆者の担当する大学院の講義の1コマで「最近の若者は車を買わなくなったのか?」というテーマで学生とディスカッションをやっている。毎回新たな発見があるので、今回も学生の意見を紹介しよう。 この問いの背景は、我が国の基幹産業の大黒柱であり、大量生産・大量販売の象徴である「自動車」を、若者が購入しなくなったのだとしたら、それは、ある消費者層(この場合は若者)の消費形態が大きく変わったということだから、持続可能な社会の実現に向けて何らかの参考になるのではないか?ということを考えている。 話の前提はかなり極端で、場所は東京の真ん中で、足として車が必要な地方とは状況が大きく異なる。対照とする時代を、筆者が若者だったときの多少サバを読んで1990年と置いている。まさにバブル真っ盛りであり、大学生になったら車を買うのが当たり前、車がないとデートできない、格好良いスポーツカーを持っている奴がモテるという時代であった。ちなみに、1990年と現在は、人口は大体同じぐらい、実質GDPは1.3倍だが、20代人口が3/4に減り、自動車販売台数(バス、トラックを含む)が、778万台から478万台、つまり約40%減少しているという状況である。逆に言えば国内市場が40%縮小しても元気な自動車産業は偉い。 さて、彼らの意見を聞いていると、学生には、自動車を購入する、所有するという発想はない。友だちと旅行に行くときにはカーシェアリングを使うことはあるが、日常的に車で移動する習慣はないし、都会の交通インフラが便利になっているので、車で移動する必要性を感じないという訳である。講義が雨の日にあったらもう少し議論が変わったかもしれないが・・・ これまでは、1990年の話をすると割と何でそんなバカげた理由で車を買うのかという反応が多かったが、今回は一周回って、昔話としては理解できるという反応が多かった。1つ鋭い指摘だったのが、ステータスに対する認識が大きく変わったのではないかという指摘であった。その当時、車を持つ、スポーツカーを持っているということがステータスだったのではないか。それに対して今は、SNSでフォロアーが多いとか、ゲームの成績がステータスであり、車は映えず、そういう価値はないという指摘である。なるほど、そうだとしたら若者は車を買うわけないと深く納得した。 デートに必須とか、高いステータスを獲得するために必須のアイテムという幻想が失われてしまうと、どう考えても都会で車を所有する合理的な根拠はない。初期投資額、維持費、駐車場代が割りに合わない。都会は交通インフラが発達していて便利だし、速くて正確。自動車は移動時間も正確に読めない、交通事故のリスクが怖いといった意見も出た。昔は車があれば、通勤通学の時間も自分の空間があって、音楽やラジオが聴けて、電車の混雑が避けられるということだったが、電車の混雑度は若干は緩和され、スマホとイヤホンでそういった楽しみもバーチャル化されて実現されているのだろう。 かように、若者は車を買うことが全く眼中にないとすると、テレビでやっている山のような自動車のコマーシャルは何なのだと思ってしまう。あ、そもそも若者はテレビを見ないのか。この辺に、空間は同じ所に暮らしていたとしても、ライフスタイルに大きなジェネレーションギャップがあることに、改めて気付かされる。 学生の意見を聞いていると、彼らのライフスタイルはつくづくサービス社会に既に移行済みであると感じる。買い物はオンラインショッピングで、友だちと遊ぶのもオンラインゲーム、会話もLINE。その意味で外出する機会が減った。旅行のために車を使うことがあるが、頻度が低いのでカーシェアリングで充分。目的に合ったサイズの車を借りられるのでむしろ便利。キャンプに行ったりすることもあるが、それも身一つで行ってキャンプができたり、バーベキューができるサービスを利用する。つくづく、ものを所有せず、サービスを適切に選択して活用するライフスタイルの広がりを感じる。改めて1990年と今を比べてみると、時代は実際大きく変わっているし、まさに、諸富先生が言う「非物質主義的転回」(諸富徹: 「資本主義の新しい形」, 岩波書店, 2020)が身の回りで十二分に起きていると感じる。 とすると、筆者らは、脱大量生産・大量消費だ、サーキュラー・エコノミーだと、説教臭く言っているが、若者のライフスタイルは既にそうなっているのではないか。むしろ彼らを手本として、変わるべきは、筆者らの世代であり、おそらく、日本メーカーの体質、思考回路なのであろう。学生のレポートにも、「製造には強いが新たなコンテンツを生み出すイノベーションに弱いというままでは、近年コト消費を生み出し続けている海外企業に対し、競争力が低下する一方だと危惧されます。」とあった。 改めて思ったのは、社会は時間と共に大きく変わる、変えることができる、そこは確信をもって良いということである。しかし一方で、1990年と今を比べたとき、CO2排出量はほとんど減ってないし、資源消費量も多分ほとんど減ってない。若者のライフスタイルの産業部門を含めた日本全体のCO2排出、資源消費に対する影響力がまだ充分に大きくなく、今後は加速度的に削減が進むと信じることにしよう。

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第145回「正十二面体づくりと工学に生きる心得」

2025.04.01

 正多面体は辺の長さが等しい一種類の正多角形を組み合わせ、かつ各頂点の周りの面の数が等しい多面体です。正三角形による正四・八・二十面体、正方形による正六面体(立方体)、正五角形による正十二面体の五種類があります。その形や展開図はあちこちで紹介されるため、ご存じの方も多いとは思います。正多角形でできるものには他に、サッカーボール型といわれる切頂二十面体(正五角形×12、正六角形×20)などもあります。